LOGIN「雑魚だろ。そんなひょろくて能力もないやつが救世主なんて信じられん」
ルゥの声が、神殿の裏庭に冷たく落ちた。
白い石畳の上で、俺は拳を握ったまま動けなかった。言い返したいのに、喉の奥が焼けつくばかりで、うまく声にならない。
天界アストリアに召喚されてから、俺は何度も自分の弱さを見せつけられている。
戦闘力はない。魔力もない。剣を握っても、手のひらに残るのは頼りない重さだけ。
それでも、ミユウを守るためにここへ来たのだと、俺は思いたかった。
「ルゥ、そんな言い方しないで」
俺の隣で、ミユウがむっと頬をふくらませた。
背中の白い羽が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。神殿の庭に咲いた淡い花より、その白はずっとまぶしい。
けれど、その白さを見るたび、胸の奥がざわついた。
もしミユウが白い翼を持つ存在ではなく、ただの普通の少女として生きていたら。
もっと穏やかに笑って、誰かに狙われることもなく、痛みや恐怖から遠い場所で幸せに暮らせたのかもしれない。
でも、現実のミユウは違う。
白翼の継承者。
特別な癒しの力を持つ少女。
その力のせいで、天使族からも悪魔族からも狙われている。
あの白い羽は綺麗なだけじゃない。ミユウを特別にして、同時に、この世界の残酷さの真ん中に立たせているものでもあった。
「事実を言っただけだ」
ルゥは腕を組んだまま、俺を上から下まで眺めた。
銀色に近い淡い髪が風に揺れている。整った顔立ちをしているのに、その目つきだけは刃物みたいだった。
「ミユウを守る? お前が? 雑魚の偽物が?」
胸の奥に、鈍い音がした。
雑魚。
偽物。
たった二つの言葉が、俺の足元を崩していく。
学校では、こんなふうに誰かから面と向かって価値を否定されたことなんてなかった。何者にもなれない焦りを、くだらない妄想でごまかしていた俺には、ルゥの言葉が痛すぎた。
「偽物かどうかは、まだ決まってないだろ」
やっと出た声は、思ったより低かった。
ルゥの眉が少しだけ動く。
「へえ。口だけは救世主っぽいな」
「口だけで終わらせるつもりはない」
「なら、見せてみろ」
ルゥが片手を掲げた瞬間、裏庭の空気が変わった。
神殿の白壁に刻まれた紋様が、かすかに光る。足元の草が、見えない風に押されるようにざわめいた。
少し離れた噴水の水音まで、急に遠のいた気がした。
ここは神殿の裏庭だ。外からは見えにくく、白い柱に囲まれた静かな場所。ミユウが「ここなら人が少ないから、龍夜くんも落ち着けるよ」と連れてきてくれた場所だった。
その静けさを、ルゥは一瞬で戦場に変えた。
ミユウが小さく息を呑む。
「ルゥ、まさかここで召喚術を使うの?」
「こいつの力量を見るだけだ。死ぬような相手は出さない」
「でも、龍夜くんはまだ――」
「だからだ」
ルゥの声が低くなった。
「本当に救世主なら、雑魚相手くらい斬れる。偽物なら、ここで自覚できる」
俺は腰に下げられた訓練用の剣に手をかけた。
重い。
たったそれだけの動作で、腕に余計な力が入る。剣道なんて授業で少しかじった程度だ。異世界の戦い方なんて、漫画やゲームの中でしか知らない。
それでも、ミユウの前で逃げるわけにはいかなかった。
俺は救世主として呼ばれた。
なら、少なくとも、逃げないくらいの意地は見せたい。
「出でよ」
ルゥが呪文を唱える。
知らない言葉が空気に溶け、庭の中央に青白い光の輪が浮かんだ。
輪の内側から、ぬるりと何かが這い出してくる。
半透明の体。水を固めたような丸い輪郭。人の膝ほどの高さしかない。
スライムだった。
正直、少しだけ安心した。
巨大な魔獣でも、牙だらけの化け物でもない。これなら、俺にもどうにかできるかもしれない。
その甘さを、すぐに思い知らされることになる。
「来い」
俺は剣を構えた。
スライムはぷるんと震えたあと、俺を見上げるように体を傾けた。
次の瞬間、地面を跳ねた。
「っ!」
思ったより速い。
俺は反射で横に避けたつもりだった。だが、足がもつれる。剣先が石畳をこすり、耳障りな音が鳴った。
スライムは俺の肩にぶつかり、そのまま弾む。
痛みより先に、体が傾いた。
膝をついた俺の横で、ルゥが鼻で笑う。
「救世主様、今のが避けられないのか」
「まだ一回目だ」
「雑魚の偽物は言い訳だけは早いな」
奥歯を噛んだ。
怒りで視界が狭くなる。けれど、怒りだけで剣は動かない。
俺は立ち上がり、もう一度スライムに向かった。
剣を振る。
空を切る。
スライムは俺の足元をすり抜け、背後に回った。
次の瞬間、ふくらはぎに冷たい衝撃が走る。
「うわっ」
足をすくわれ、背中から石畳に落ちた。
肺の空気が抜ける。
空が、やけに高い。
神殿の柱の向こうに、白い雲が流れていく。こんな綺麗な場所で、俺は小さなスライム一匹に転がされている。
石畳の冷たさが背中から染みてきた。
悔しい。
痛いより、恥ずかしいより、その感情が先に来た。
ミユウの前で、俺は何もできていない。
「龍夜くん!」
ミユウが駆け寄ろうとした。
しかし、ルゥが片腕を伸ばして止める。
「手を出すな。こいつのためにならない」
「でも、痛そうだよ!」
「痛いだけで済んでいる」
ルゥの言葉は正しい。
それが余計に腹立たしかった。
俺は肘をつき、息を整える。背中がじんじんする。剣を握る指が震えていた。
弱い。
自分でも嫌になるほど、俺は弱い。
このまま弱いままだったら、俺だけじゃない。
ミユウまで危険にさらす。
彼女は白翼を持っているだけで、多くのものを背負わされている。狙われる理由を、望んで手に入れたわけじゃない。それなのに俺が隣で転んでいるだけなら、守るどころか、彼女の足かせになる。
そんなのは嫌だった。
「まだだ」
俺は立ち上がった。
ミユウの目が揺れる。
心配そうな顔をさせたくなかった。けれど、強がって笑える余裕もない。
スライムが、また跳ねる。
俺は今度こそ見切ろうとした。
体の軌道を読む。足を引く。剣を振り下ろす。
刃は、スライムの体をかすめた。
手応えがあった。
ほんの一瞬、胸の奥が熱くなる。
だが次の瞬間、スライムの体がぐにゃりと形を変えた。剣を包み込み、俺の腕ごと引っ張る。
「なっ」
剣が抜けない。
腕に力を込めるほど、半透明の体がぬめるように絡みつく。
足元がおろそかになったところで、スライムがぐっと沈み込んだ。
跳ね上がる。
剣を引かれたまま、俺の体が前へ泳いだ。
肩から石畳に叩きつけられる。
頬に鋭い痛みが走った。
熱いものが皮膚の上を伝う。
手の甲にも、赤い線ができていた。
「龍夜くん、血が!」
ミユウの声が裏返った。
俺は反射的に傷を隠そうとした。
「大丈夫だ。こんなの――」
「大丈夫じゃない!」
ミユウがルゥの腕を押しのけて走ってくる。
ルゥは止めなかった。ただ、苦々しげに眉を寄せる。
「ミユウ、待て。使うな」
「やだ」
「それは軽く使う力じゃない」
「でも、龍夜くんが痛いのはもっとやだ!」
ミユウは俺の前に膝をついた。
その顔から、いつもの無邪気な笑みが消えている。
小さな手が、俺の傷ついた手の甲に触れた。
あたたかい。
ただの体温のはずなのに、そのぬくもりは不思議なくらい深く染み込んできた。
「ミユウ、平気だ。本当に――」
「平気な顔、しないで」
ミユウの声が震えていた。
「龍夜くんが我慢してるの、わたし、いやだよ」
言葉が詰まった。
守るつもりだった。
なのに、俺はまた、この子に心配させている。
ミユウはゆっくり目を閉じた。
背中の白い羽が広がる。
風が止まった。
裏庭に咲いていた花の揺れも、神殿の壁に反射する光も、すべてがミユウを中心に静まり返ったように感じた。
その小さな体から、淡い白金の光があふれ出す。
ただ明るいだけじゃない。
傷口に触れた光は、水のようにやわらかく、火のように熱く、祈りみたいにまっすぐだった。
俺の手の甲の痛みが、少しずつ薄れていく。
頬の傷が引いていく感覚がある。
肩の痛みも、背中の鈍さも、白い光にほどかれていく。
ありえない光景だった。
けれど、俺は目を逸らせなかった。
ミユウの横顔は、今まで見たどんな表情より真剣だった。
いつものミユウはよく笑う。
俺が情けない顔をすれば、すぐに覗き込んでくる。難しい話になると首を傾げて、それでもわかったふりをしないで、まっすぐ聞いてくれる。
けれど今のミユウは、天真爛漫な少女の顔をしていなかった。
誰かを救うために、自分の中の何かを削っている顔だった。
白い羽の根元が、小さく震えている。
額に浮かんだ汗が、光を受けてきらめいた。
それでもミユウは手を離さない。俺の傷だけを見つめて、まるで自分の痛みみたいに眉を寄せている。
その瞬間、ぞっとした。
この力があるから、ミユウは狙われる。
この光を欲しがる者がいる。
この子の優しさごと奪おうとするやつらが、どこかにいる。
白翼の継承者として生まれたから。
特別な癒しの力を持ってしまったから。
ミユウは、普通の少女なら背負わなくてよかったものまで背負っている。
もし、俺がこのまま弱いままだったら。
もし、俺がまた彼女に守られるだけだったら。
ミユウはきっと、何度でもこうして力を使う。
俺が傷つくたびに。
俺が倒れるたびに。
俺の弱さを埋めるために、自分の命を削るように光る。
そんなのは、守るとは言わない。
「ミユウ、もういい」
声がかすれた。
「治った。もう大丈夫だ」
ミユウは答えない。
白い光はさらに強くなる。羽の先から細かな光の粒が散り、俺の傷だけでなく、石畳に落ちた小さな血の跡まで包み込んでいく。
ルゥが一歩踏み出した。
「やめろ、ミユウ。それ以上は体に響く」
「もう、少し」
「命令だ。やめろ」
「いやだ。ちゃんと、治すの」
ミユウの手が冷たくなっていく。
さっきまであたたかかった指先から、力が抜けていくのがわかった。
俺は慌ててその手を握り返す。
「ミユウ!」
光が、ふっと揺れた。
白い羽が力を失ったように下がる。
ミユウの体が前に傾いた。
俺は反射で受け止めた。
軽い。
あまりにも軽すぎて、胸が凍った。
「ミユウ!」
腕の中で、ミユウは目を閉じている。顔色がさっきより白い。唇から小さく息が漏れたから生きているとわかっただけで、全身の血が引いた。
ルゥが駆け寄り、膝をつく。
さっきまで俺を見下していた顔から、余裕が消えていた。
「だから言ったんだ。お前のせいで、こいつが無茶をした」
その言葉に、言い返せなかった。
俺のせいだ。
俺が弱いから。
俺がスライム一匹に転がされたから。
俺が守るどころか、守られる側のままだったから、ミユウは倒れた。
胸の奥が、情けなさで裂けそうだった。
「……悪い」
声が震えた。
誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。
ルゥにか。ミユウにか。それとも、救世主なんて言葉に少しでも浮かれていた自分にか。
ルゥは唇を噛み、俺を睨んだ。
「謝るくらいなら強くなれ。雑魚の偽物のまま、ミユウの隣に立つな」
その言葉は、今までで一番きつかった。
けれど、今度は逃げたいとは思わなかった。
怒りより先に、腕の中の重みがあった。
ミユウの羽が、俺の腕に触れている。やわらかくて、折れそうで、それでも誰かを救うために光ろうとする白。
俺はその白を、守りたいと思った。
ただ呼ばれたからじゃない。
救世主と言われたからでもない。
この子が、俺の傷を見て泣きそうな顔をしたから。
俺が痛いのを嫌だと言って、自分が倒れるまで力を使ったから。
そんな子を、二度と俺のせいで傷つけたくない。
俺はミユウを抱きしめた。
壊さないように、けれどもう離さないように。
喉の奥に残っていた情けなさを、全部飲み込む。
「もっと強くなる」
その言葉は、誰かに聞かせるためのものじゃなかった。
俺自身に叩きつけるための誓いだった。
けれど、ルゥは立ち上がらなかった。
ミユウの顔色を確かめたあと、低い声で言った。
「覚えておけ、瀬野龍夜」
俺は顔を上げる。
ルゥの目には、怒りだけじゃないものがあった。
焦り。
恐れ。
そして、ミユウを失うかもしれないという、俺よりずっと深い痛み。
「お前は今、ミユウの足手まといだ」
胸を貫かれたような気がした。
否定できなかった。
腕の中で眠るミユウの軽さが、その言葉の全部を証明していた。
「うそ…だろ。なんで…お前…そんな」 声が震えた。 広大な玉座の間へ放たれたはずの言葉は、黒い柱と高い天井に何度も反響し、最後には冷たい石の壁へ吸い込まれていった。 返事はない。 正面に立つミユウは、俺が知る白い翼の少女ではなかった。 銀色の髪は変わらない。細い頬も、透き通るような瞳も、何度も俺へ笑いかけてくれた顔も同じだ。 けれど、その背中から広がっている翼だけが、夜よりも深い黒に染まっていた。 一枚一枚の羽根から闇色の魔力がこぼれ落ち、床を這う霧となって彼女の足元へ絡みついている。青白い燭台の炎が黒い翼に遮られ、ミユウの顔には凍りついたような影が差していた。 違う。 姿だけじゃない。 俺を見る目に、あのあたたかさがない。「ミユウ……」 名前を呼び、一歩踏み出した瞬間、胸の奥で冷たい輪が縮んだ。「ぐっ……!」 心臓を内側から握り潰されるような衝撃に、身体が前へ折れる。 俺は胸を押さえた。螺旋階段を駆け上がっていたときから続いている異変が、玉座の間へ入ってから急激に強まっている。 乱れた呼吸が、やけに大きく響いた。 床へ膝が落ちそうになる。 それでも、つま先に力を込めた。 ここまで来たのは、倒れるためじゃない。 あいつを連れて帰るためだ。 俺が顔を上げると、ミユウは黒い翼の向こうから俺を見下ろしていた。澄んだ瞳には、心配も迷いも浮かんでいない。 やがて、薄い唇が冷たく動いた。「無様な姿ね」 聞き慣れた声だった。 だからこそ、その言葉は刃より深く胸へ突き刺さった。 ミユウは具合が悪そうな誰かを見つければ、考えるより先に駆け寄るようなやつだった。苦しむ相手を見下ろして笑うなんて、俺の知るミユウなら絶対にしない。「そんな顔で、そんなこと言うなよ……」 絞り出した声に、ミユウは答えなかった。 黒い翼をゆっくりと畳み、俺へ背を向ける。 そして玉座へ向かって歩き出した。 一歩ごとに鳴る靴音が、冷たい空間を重く打つ。 俺から離れ、あいつへ近づいていく。 玉座の間の最奥には、黒銀の装飾に囲まれた巨大な玉座がそびえていた。その上に腰かけるラフィセルは、頬杖をついたまま俺たちを見下ろしている。 怒りも警戒もない。 俺がここへ来ることも、ミユウが俺の前に立つことも、最初から知っていたような顔だった。 玉座へ続く床には
靴底が石段を打つたび、乾いた足音が螺旋階段の奥へ吸い込まれていった。 ひび割れた石壁は肩が触れそうなほど近く、壁に掛けられた古いランタンだけが、狭い足元を頼りなく照らしている。炎は風もないのに揺れ、俺の金色の髪と、ねじれながら伸びていく影を何度も闇へ沈めた。 右へ、さらに右へ。 いくら登っても同じ景色が続き、中央の吹き抜けは底のない穴のように口を開けている。錆びた手すりの向こうを覗いても、下層の明かりさえ見えない。踏み外した石片が暗闇へ落ちていったが、いつまで待っても音は返ってこなかった。 胸の奥で、鼓動がひとつ大きく跳ねた。 続くはずの次の鼓動が来ない。 心臓だけが取り残されたような空白のあと、遅れを取り戻そうとする激しい脈動が胸を内側から叩いた。冷たい輪で締めつけられる感覚が強まり、吸い込んだ息が喉の途中で止まる。「っ……まだだ」 俺は胸元を押さえていた手を離した。 痛みがあることはわかっている。体が普段どおりではないことも、無視できるほど鈍くはない。 それでも、止まる理由にはならなかった。 この階段の先にミユウがいる。それなら今の俺に必要なのは、痛みの正体を考えることではなく、一段でも多く登ることだ。 視界を遮る曲がり角へ踏み込んだ瞬間、頭上の闇が膨らんだ。 俺は反射的に右手を伸ばした。「アストラルフレイム!」 金色の光が指先へ集まり、剣の形を結ぶ。 直後、上段から振り下ろされた巨大な爪が刃へ激突した。 耳を刺す金属音とともに、狭い階段の空気が爆ぜる。両腕へ押し潰すような重圧がかかり、足元の石段から何本もの亀裂が伸びた。俺は奥歯を噛みしめ、沈みそうになった腰を支える。 敵は上にいる。 ただでさえ狭い場所で、体重まで乗せた一撃を受け続ければ押し切られる。 俺は刃をわずかに傾け、爪の力を外壁側へ逃がした。黒い爪がアストラルフレイムの表面を滑り、石壁へ深く突き刺さる。 石の破片が頬をかすめた。 敵の腕の下を潜り、二段上へ踏み込む。懐へ入れば巨体の力は使えない。そう判断して剣を振り上げようとしたが、切っ先が低い天井へ触れた。 ほんの一瞬、剣筋が止まる。 その隙を、敵は見逃さなかった。 横から黒い衝撃が叩き込まれた。「ぐっ!」 体が浮き、外壁へ弾き飛ばされる。 俺は激突する直前に左足を壁へ突き立てた。靴底が石を削
「ミユウ!」 閉じかけた魔界の門へ、俺は手を伸ばした。 赤黒い光の裂け目が、刃のように細くなっていく。その向こうで、ラフィセルがミユウを連れ去ろうとしていた。白い翼を押さえ込まれても、ミユウは振り返り、まっすぐに俺を見ていた。 怯えきった顔ではなかった。 俺が来ると信じている目だった。「龍夜くん!」 声が届いた直後、ラフィセルの姿が闇に溶けた。 門が閉じる。 ミユウの白い指先が見えなくなり、赤黒い光は一本の線となって消えた。俺の手は、何もない空間をつかんだ。「ミユウ!」 返事はない。 鏡の池を渡ってきた冷たい風が、金色の髪を揺らした。さっきまで門があった場所には、黒く焼けたような円形の跡だけが残っている。「ミユウ! 聞こえるか!」 俺は拳で門の跡を叩いた。 固い壁を殴ったような衝撃が腕を走る。それでも構わず、もう一度拳を振り上げた。「ミユウ!」「いつまでそうやって叫んでいるつもりですか」 背後から飛んできたルゥの声が、俺の拳を止めた。 振り返ると、ルゥは腕を組んで立っていた。いつもと変わらない、偉そうな顔だ。けれど、その視線は俺ではなく、閉じた門へ向けられている。「叫べば門が開くのですか。あなたの声が大きいことくらい、もう十分に分かりました」「分かってる。だけど……!」 言いかけた言葉をのみ込む。 このまま名前を呼び続けても、何も変わらない。 ミユウは最後まで俺を見ていた。助けを諦めた顔ではなかった。なら、俺がここで立ち止まる理由はない。 俺は目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。 冷たい空気が胸へ入る。速くなっていた鼓動を数え、吐く息と一緒に焦りを押し出した。 今やるべきことは、嘆くことじゃない。 閉じた門を開けることだ。「ルゥ。この門は、もう開かないのか」「通常の方法では無理でしょう。向こう側から閉じられた門です。鍵穴すら残っていません」「通常の方法なら、か」 ルゥがわずかに眉を動かした。 俺は再び門の跡へ向き直り、今度は拳ではなく、開いた手のひらを押し当てた。 氷に触れたような冷たさが皮膚から染み込んでくる。 だが、その奥に別のものがあった。 小さな脈。 閉じた門の向こうで何かが鼓動しているように、かすかな振動が手のひらへ返ってくる。 意識を集中すると、俺の身体の内側にも、それに応える熱が生
ラステルへ続く街道が深い森へ差しかかる少し前、俺たちは道端で休んでいた旅商人から、不思議な池の話を聞いた。「ここから東へ半刻ほど歩いたところに、鏡みたいな池があるんだ」 旅商人は荷馬車の車輪へ新しい留め具を打ち込みながら、まるで近所の井戸について話すような気軽さで言った。「鏡みたい?」 ミユウがすぐに食いつく。「ああ。風が吹いても波一つ立たない。空も雲も、のぞき込んだ人間の顔も、何もかもそのまま映すそうだ。けど、ただ姿を映すだけじゃない。本当の姿、本当の心まで見せるんだとさ」「本当の心……」 ミユウはその言葉を確かめるように、胸の前で両手を重ねた。 穏やかな午後の日差しが、彼女の白い翼を淡く照らしている。旅商人の話を聞くまでは、道端に咲いている小さな花を楽しそうに眺めていたのに、今は池のことしか頭にないらしい。 その横顔を見た時点で、俺には次の言葉が予想できた。「行ってみたい!」「そう言うと思った」「だって、本当の心を映すのよ? すごくない?」「すごいかもしれないけど、今からラステルとは違う方向へ行くんだぞ」「半刻だけでしょう? それに、池の中で困っている人がいるかもしれないわ」「今の話のどこに、困っている人が出てきたんだよ」「詳しいことを話したがらない人がいるって言っていたでしょう? 怖い思いをしたのかもしれないわ」 ミユウは真剣な顔で旅商人を見る。「その池へ行った人は、みんな無事に戻ったんですか?」「少なくとも、俺が会った連中は生きて戻ってきたよ。ただ、池の中で何を見たのか聞いても、黙り込むばかりだったな。中には泣き出す者もいた」 俺は思わず森の方角へ目を向けた。 街道から外れた先には、日の光が届かないほど密集した木々が並んでいる。穏やかな風が吹いているのに、森の奥だけはひどく静かだった。「なるほど。本当の心を映すというより、心の奥へ直接作用する魔法かもしれませんね」 ルゥが腕を組み、考え込むように目を細めた。「珍しく慎重だな」「珍しくとは何です。私はいつでも物事を深く考えています」「じゃあ、行くのは反対か?」「誰がそのようなことを言いました?」 ルゥは少し顎を上げた。「人間の噂など、大半は尾ひれのついた作り話です。しかし、本当に精神へ作用する池ならば、魔法的な価値はあります。無知なあなたたちだけを行か
宿屋の一室には、戦いの気配を忘れさせるような静けさが満ちていた。 小さな窓から差し込む月明かりが、木の床へ細長く伸びている。壁際の燭台では、短くなった蝋燭の炎が夜風にかすかに揺れ、そのたびに壁へ映る二人分の影も、寄り添ったり離れたりを繰り返していた。 遠くから聞こえてくる川のせせらぎ。屋根の上を撫でていく風の音。時折、古い建物が思い出したように軋む。 それ以外には、何も聞こえない。 ついさっきまで剣を握り、悪魔と命を懸けて戦っていたことさえ、遠い出来事のように感じられた。 俺は部屋の中央に立ち、自分の両手を見下ろした。 手のひらには、剣を強く握り続けた跡が残っている。体のあちこちには鈍い痛みがあったが、立っていられないほどじゃない。傷の手当ても受けている。 それよりも強く感じているものがあった。 俺の内側を、静かに流れている力。 目に見えなくても、今ははっきりと分かる。 それは誰かから借りたものでも、俺の手に余る得体の知れないものでもなかった。確かに俺の中で生まれ、呼吸に合わせて全身を巡っている魔力だった。 以前の力は、怒りに呼応して一気に噴き出した。 髪は荒々しく逆立ち、燃え盛るような光が視界を埋め尽くした。強大である一方、少しでも気を抜けば自分まで飲み込まれそうな激しさがあった。 だが、今は違う。 自然に流れる金色の髪を指先でかき上げながら意識を集中させると、胸の奥で魔力がわずかに動いた。静かな湖面へ波紋が広がるように、俺の意思を待っている。 俺が望めば、この力は応えてくれる。 怒りに支配されなくてもいい。誰かを守りたいという思いを、俺自身が力へ変えられる。 戦いの中でつかんだその感覚は、まだ体に残っていた。 偶然じゃない。 俺はアストラルブレイヴの力を、自分の意思で制御した。 その事実を、もう疑うつもりはなかった。「龍夜くん」 呼びかけられ、俺は顔を上げた。 ミユウが、寝台のそばに立っていた。 薄い寝間着へ着替えた彼女の銀白色の髪が、月の光を受けて淡く輝いている。いつもの明るい笑顔を浮かべようとしているのに、その青い瞳は少し潤んでいた。 ミユウは俺の姿を確かめるように、金色の髪から頬、肩、腕へ視線を動かした。 俺が本当にここにいるのか。 今にも消えてしまわないか。 そんな不安が、言葉にされなくても伝わっ
悪魔がミユウへ触れようとした瞬間、俺はその手首をつかんだ。「ミユウに触るな」 静かな声が、自分の喉から落ちた。 胸の内には、焼けつくような怒りがある。それでも、視界は澄み切っていた。以前のように感情が力を引きずり出しているのではない。 守ると決めた俺自身が、力を動かしている。 悪魔の黒い皮膚をつかんだ指先から、淡い金色の光がにじみ出した。身体の奥から流れてきた熱が腕を通り、手のひらへ集まっていく。「熱い! なんだ、これは!」 悪魔は目を見開き、翼を激しく羽ばたかせた。俺の手を振りほどくと、赤く光る手首を押さえながら空へ逃げる。 夕暮れの森に長い影が落ちた。 冷たい風が木々の梢を揺らし、草原に咲く白い花が一斉に身を伏せる。その向こうで、悪魔の黒い翼が茜色の空を切り裂いた。 逃がすつもりはない。 俺はゆっくり息を吸い、胸の奥に意識を向けた。 力を無理に引きずり出すのではなく、自分の呼吸へ重ねていく。心臓が打つたび、身体の内側にある熱が目を覚まし、肩から腕へ、腰から足へと流れていった。 金色の髪が激しく逆立つ。 足元から立ち上った淡い金色の光が、俺の全身を静かに包み込んだ。 炎のように荒れ狂うことはない。 光は俺の輪郭に沿って穏やかに揺れ、呼吸に合わせて明るさを変えている。熱も、重さも、すべてが俺の意思に従っていた。「アストラルブレイヴ……!」 背後から、ミユウの明るい声が届く。 その声に押されるように、俺は地面を蹴った。 土が弾けた。 次の瞬間、身体は木々の高さを越え、夕暮れの空へ飛び出していた。 頬へぶつかった風が、金色の髪を激しく揺らす。 速い。 そう考えた時には、地上の草原がはるか下へ遠ざかっている。 三日前までの俺なら、飛び上がった勢いに身体を任せるしかなかった。空中で姿勢を変えるだけでも全身へ無駄な力が入り、着地する場所を選ぶ余裕などなかった。 今は違う。 右足へ魔力を流すと、何もない空に見えない足場が生まれた。そこを踏み込めば、身体は俺が望んだ方向へ鋭く曲がる。 腕へ力を移せば上半身が軽くなり、背中へ巡らせれば翼がなくても風をつかめる。 まるで、空そのものが俺の道になったようだった。 胸の奥に高揚が広がる。 だが、その感覚に酔っている暇はない。 前方を飛ぶ悪魔が右へ身体を傾ける。そのわずかな動
「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!
「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で
「いやあぁっ!」 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。「龍夜くん、少しだけ休んでいって」 そう言って、俺の手を離さなかった。 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだ
「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」 俺の声は、自分で思ったより低く響いた。 白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。 ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。 それでも、一つだけ引っかかっていた。 目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。 俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。 瀬野龍夜。 俺が名乗る前に。 その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気







