FAZER LOGIN「雑魚だろ。そんなひょろくて能力もないやつが救世主なんて信じられん」
ルゥの声が、神殿の裏庭に冷たく落ちた。
白い石畳の上で、俺は拳を握ったまま動けなかった。言い返したいのに、喉の奥が焼けつくばかりで、うまく声にならない。
天界アストリアに召喚されてから、俺は何度も自分の弱さを見せつけられている。
戦闘力はない。魔力もない。剣を握っても、手のひらに残るのは頼りない重さだけ。
それでも、ミユウを守るためにここへ来たのだと、俺は思いたかった。
「ルゥ、そんな言い方しないで」
俺の隣で、ミユウがむっと頬をふくらませた。
背中の白い羽が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。神殿の庭に咲いた淡い花より、その白はずっとまぶしい。
けれど、その白さを見るたび、胸の奥がざわついた。
もしミユウが白い翼を持つ存在ではなく、ただの普通の少女として生きていたら。
もっと穏やかに笑って、誰かに狙われることもなく、痛みや恐怖から遠い場所で幸せに暮らせたのかもしれない。
でも、現実のミユウは違う。
白翼の継承者。
特別な癒しの力を持つ少女。
その力のせいで、天使族からも悪魔族からも狙われている。
あの白い羽は綺麗なだけじゃない。ミユウを特別にして、同時に、この世界の残酷さの真ん中に立たせているものでもあった。
「事実を言っただけだ」
ルゥは腕を組んだまま、俺を上から下まで眺めた。
銀色に近い淡い髪が風に揺れている。整った顔立ちをしているのに、その目つきだけは刃物みたいだった。
「ミユウを守る? お前が? 雑魚の偽物が?」
胸の奥に、鈍い音がした。
雑魚。
偽物。
たった二つの言葉が、俺の足元を崩していく。
学校では、こんなふうに誰かから面と向かって価値を否定されたことなんてなかった。何者にもなれない焦りを、くだらない妄想でごまかしていた俺には、ルゥの言葉が痛すぎた。
「偽物かどうかは、まだ決まってないだろ」
やっと出た声は、思ったより低かった。
ルゥの眉が少しだけ動く。
「へえ。口だけは救世主っぽいな」
「口だけで終わらせるつもりはない」
「なら、見せてみろ」
ルゥが片手を掲げた瞬間、裏庭の空気が変わった。
神殿の白壁に刻まれた紋様が、かすかに光る。足元の草が、見えない風に押されるようにざわめいた。
少し離れた噴水の水音まで、急に遠のいた気がした。
ここは神殿の裏庭だ。外からは見えにくく、白い柱に囲まれた静かな場所。ミユウが「ここなら人が少ないから、龍夜くんも落ち着けるよ」と連れてきてくれた場所だった。
その静けさを、ルゥは一瞬で戦場に変えた。
ミユウが小さく息を呑む。
「ルゥ、まさかここで召喚術を使うの?」
「こいつの力量を見るだけだ。死ぬような相手は出さない」
「でも、龍夜くんはまだ――」
「だからだ」
ルゥの声が低くなった。
「本当に救世主なら、雑魚相手くらい斬れる。偽物なら、ここで自覚できる」
俺は腰に下げられた訓練用の剣に手をかけた。
重い。
たったそれだけの動作で、腕に余計な力が入る。剣道なんて授業で少しかじった程度だ。異世界の戦い方なんて、漫画やゲームの中でしか知らない。
それでも、ミユウの前で逃げるわけにはいかなかった。
俺は救世主として呼ばれた。
なら、少なくとも、逃げないくらいの意地は見せたい。
「出でよ」
ルゥが呪文を唱える。
知らない言葉が空気に溶け、庭の中央に青白い光の輪が浮かんだ。
輪の内側から、ぬるりと何かが這い出してくる。
半透明の体。水を固めたような丸い輪郭。人の膝ほどの高さしかない。
スライムだった。
正直、少しだけ安心した。
巨大な魔獣でも、牙だらけの化け物でもない。これなら、俺にもどうにかできるかもしれない。
その甘さを、すぐに思い知らされることになる。
「来い」
俺は剣を構えた。
スライムはぷるんと震えたあと、俺を見上げるように体を傾けた。
次の瞬間、地面を跳ねた。
「っ!」
思ったより速い。
俺は反射で横に避けたつもりだった。だが、足がもつれる。剣先が石畳をこすり、耳障りな音が鳴った。
スライムは俺の肩にぶつかり、そのまま弾む。
痛みより先に、体が傾いた。
膝をついた俺の横で、ルゥが鼻で笑う。
「救世主様、今のが避けられないのか」
「まだ一回目だ」
「雑魚の偽物は言い訳だけは早いな」
奥歯を噛んだ。
怒りで視界が狭くなる。けれど、怒りだけで剣は動かない。
俺は立ち上がり、もう一度スライムに向かった。
剣を振る。
空を切る。
スライムは俺の足元をすり抜け、背後に回った。
次の瞬間、ふくらはぎに冷たい衝撃が走る。
「うわっ」
足をすくわれ、背中から石畳に落ちた。
肺の空気が抜ける。
空が、やけに高い。
神殿の柱の向こうに、白い雲が流れていく。こんな綺麗な場所で、俺は小さなスライム一匹に転がされている。
石畳の冷たさが背中から染みてきた。
悔しい。
痛いより、恥ずかしいより、その感情が先に来た。
ミユウの前で、俺は何もできていない。
「龍夜くん!」
ミユウが駆け寄ろうとした。
しかし、ルゥが片腕を伸ばして止める。
「手を出すな。こいつのためにならない」
「でも、痛そうだよ!」
「痛いだけで済んでいる」
ルゥの言葉は正しい。
それが余計に腹立たしかった。
俺は肘をつき、息を整える。背中がじんじんする。剣を握る指が震えていた。
弱い。
自分でも嫌になるほど、俺は弱い。
このまま弱いままだったら、俺だけじゃない。
ミユウまで危険にさらす。
彼女は白翼を持っているだけで、多くのものを背負わされている。狙われる理由を、望んで手に入れたわけじゃない。それなのに俺が隣で転んでいるだけなら、守るどころか、彼女の足かせになる。
そんなのは嫌だった。
「まだだ」
俺は立ち上がった。
ミユウの目が揺れる。
心配そうな顔をさせたくなかった。けれど、強がって笑える余裕もない。
スライムが、また跳ねる。
俺は今度こそ見切ろうとした。
体の軌道を読む。足を引く。剣を振り下ろす。
刃は、スライムの体をかすめた。
手応えがあった。
ほんの一瞬、胸の奥が熱くなる。
だが次の瞬間、スライムの体がぐにゃりと形を変えた。剣を包み込み、俺の腕ごと引っ張る。
「なっ」
剣が抜けない。
腕に力を込めるほど、半透明の体がぬめるように絡みつく。
足元がおろそかになったところで、スライムがぐっと沈み込んだ。
跳ね上がる。
剣を引かれたまま、俺の体が前へ泳いだ。
肩から石畳に叩きつけられる。
頬に鋭い痛みが走った。
熱いものが皮膚の上を伝う。
手の甲にも、赤い線ができていた。
「龍夜くん、血が!」
ミユウの声が裏返った。
俺は反射的に傷を隠そうとした。
「大丈夫だ。こんなの――」
「大丈夫じゃない!」
ミユウがルゥの腕を押しのけて走ってくる。
ルゥは止めなかった。ただ、苦々しげに眉を寄せる。
「ミユウ、待て。使うな」
「やだ」
「それは軽く使う力じゃない」
「でも、龍夜くんが痛いのはもっとやだ!」
ミユウは俺の前に膝をついた。
その顔から、いつもの無邪気な笑みが消えている。
小さな手が、俺の傷ついた手の甲に触れた。
あたたかい。
ただの体温のはずなのに、そのぬくもりは不思議なくらい深く染み込んできた。
「ミユウ、平気だ。本当に――」
「平気な顔、しないで」
ミユウの声が震えていた。
「龍夜くんが我慢してるの、わたし、いやだよ」
言葉が詰まった。
守るつもりだった。
なのに、俺はまた、この子に心配させている。
ミユウはゆっくり目を閉じた。
背中の白い羽が広がる。
風が止まった。
裏庭に咲いていた花の揺れも、神殿の壁に反射する光も、すべてがミユウを中心に静まり返ったように感じた。
その小さな体から、淡い白金の光があふれ出す。
ただ明るいだけじゃない。
傷口に触れた光は、水のようにやわらかく、火のように熱く、祈りみたいにまっすぐだった。
俺の手の甲の痛みが、少しずつ薄れていく。
頬の傷が引いていく感覚がある。
肩の痛みも、背中の鈍さも、白い光にほどかれていく。
ありえない光景だった。
けれど、俺は目を逸らせなかった。
ミユウの横顔は、今まで見たどんな表情より真剣だった。
いつものミユウはよく笑う。
俺が情けない顔をすれば、すぐに覗き込んでくる。難しい話になると首を傾げて、それでもわかったふりをしないで、まっすぐ聞いてくれる。
けれど今のミユウは、天真爛漫な少女の顔をしていなかった。
誰かを救うために、自分の中の何かを削っている顔だった。
白い羽の根元が、小さく震えている。
額に浮かんだ汗が、光を受けてきらめいた。
それでもミユウは手を離さない。俺の傷だけを見つめて、まるで自分の痛みみたいに眉を寄せている。
その瞬間、ぞっとした。
この力があるから、ミユウは狙われる。
この光を欲しがる者がいる。
この子の優しさごと奪おうとするやつらが、どこかにいる。
白翼の継承者として生まれたから。
特別な癒しの力を持ってしまったから。
ミユウは、普通の少女なら背負わなくてよかったものまで背負っている。
もし、俺がこのまま弱いままだったら。
もし、俺がまた彼女に守られるだけだったら。
ミユウはきっと、何度でもこうして力を使う。
俺が傷つくたびに。
俺が倒れるたびに。
俺の弱さを埋めるために、自分の命を削るように光る。
そんなのは、守るとは言わない。
「ミユウ、もういい」
声がかすれた。
「治った。もう大丈夫だ」
ミユウは答えない。
白い光はさらに強くなる。羽の先から細かな光の粒が散り、俺の傷だけでなく、石畳に落ちた小さな血の跡まで包み込んでいく。
ルゥが一歩踏み出した。
「やめろ、ミユウ。それ以上は体に響く」
「もう、少し」
「命令だ。やめろ」
「いやだ。ちゃんと、治すの」
ミユウの手が冷たくなっていく。
さっきまであたたかかった指先から、力が抜けていくのがわかった。
俺は慌ててその手を握り返す。
「ミユウ!」
光が、ふっと揺れた。
白い羽が力を失ったように下がる。
ミユウの体が前に傾いた。
俺は反射で受け止めた。
軽い。
あまりにも軽すぎて、胸が凍った。
「ミユウ!」
腕の中で、ミユウは目を閉じている。顔色がさっきより白い。唇から小さく息が漏れたから生きているとわかっただけで、全身の血が引いた。
ルゥが駆け寄り、膝をつく。
さっきまで俺を見下していた顔から、余裕が消えていた。
「だから言ったんだ。お前のせいで、こいつが無茶をした」
その言葉に、言い返せなかった。
俺のせいだ。
俺が弱いから。
俺がスライム一匹に転がされたから。
俺が守るどころか、守られる側のままだったから、ミユウは倒れた。
胸の奥が、情けなさで裂けそうだった。
「……悪い」
声が震えた。
誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。
ルゥにか。ミユウにか。それとも、救世主なんて言葉に少しでも浮かれていた自分にか。
ルゥは唇を噛み、俺を睨んだ。
「謝るくらいなら強くなれ。雑魚の偽物のまま、ミユウの隣に立つな」
その言葉は、今までで一番きつかった。
けれど、今度は逃げたいとは思わなかった。
怒りより先に、腕の中の重みがあった。
ミユウの羽が、俺の腕に触れている。やわらかくて、折れそうで、それでも誰かを救うために光ろうとする白。
俺はその白を、守りたいと思った。
ただ呼ばれたからじゃない。
救世主と言われたからでもない。
この子が、俺の傷を見て泣きそうな顔をしたから。
俺が痛いのを嫌だと言って、自分が倒れるまで力を使ったから。
そんな子を、二度と俺のせいで傷つけたくない。
俺はミユウを抱きしめた。
壊さないように、けれどもう離さないように。
喉の奥に残っていた情けなさを、全部飲み込む。
「もっと強くなる」
その言葉は、誰かに聞かせるためのものじゃなかった。
俺自身に叩きつけるための誓いだった。
けれど、ルゥは立ち上がらなかった。
ミユウの顔色を確かめたあと、低い声で言った。
「覚えておけ、瀬野龍夜」
俺は顔を上げる。
ルゥの目には、怒りだけじゃないものがあった。
焦り。
恐れ。
そして、ミユウを失うかもしれないという、俺よりずっと深い痛み。
「お前は今、ミユウの足手まといだ」
胸を貫かれたような気がした。
否定できなかった。
腕の中で眠るミユウの軽さが、その言葉の全部を証明していた。
ザクリ、と鈍い音がした。 俺の剣は、小型悪魔の肩をかすめただけだった。 次の瞬間、黒い影が地面を蹴る。 低く、速い。 俺が剣を戻すより早く、腹に衝撃がめり込んだ。「ぐっ……!」 息が詰まった。 足が浮く。 背中から神殿の裏庭の石畳に叩きつけられ、肺の中の空気が全部逃げていく。 視界が白く弾けた。 それでも、握っていた剣だけは離さなかった。 小型悪魔は、俺より頭一つ分小さい。 なのに、速さも力も桁が違う。 黒い皮膚。 ぎょろりとした赤い目。 裂けた口。 訓練用だとルゥは言った。 けれど、俺には十分すぎるほど化け物だった。「立て」 ルゥの声が飛んだ。 神殿の裏庭には、朝の光が差している。 白い柱。 蔦の絡んだ壁。 噴水の涼しい音。 平和そうな景色の中で、俺だけが泥と汗にまみれていた。「言われなくても……立つ」 膝が笑っていた。 腕も震えていた。 それでも俺は、剣を杖みたいにして立ち上がった。 小型悪魔が、喉の奥で笑うような音を立てる。 馬鹿にされている。 たぶん実際、馬鹿にされている。 魔力ゼロの高校生が、勇者服だけ着せられて、剣を振っている。 向こうからすれば、これ以上ない見世物だ。 けれど、俺はもう決めていた。 逃げない。 ミユウを守ると決めた。 だったら、今ここで膝をついている暇なんてない。「もう一回だ」 俺は剣を構え直した。 ルゥの金色の目が、わずかに細くなる。「雑魚のくせに、口だけは一人前ですね」「雑魚だからやるんだよ」 俺は荒い息のまま笑った。「強いやつが努力したって普通だろ。弱い俺がやるから、意味がある」 小型悪魔が跳んだ。 今度は正面じゃない。 左。 そう思った瞬間、影が右へ流れた。「くそっ!」 俺は反射で剣を振る。 空を切った。 脇腹に爪が当たる。 浅い。 けれど、熱い痛みが走った。 勇者服の布が裂れ、血が滲む。 それでも、俺は下がらなかった。 逃げるためじゃない。 捕まえるために、一歩踏み込んだ。「おおおっ!」 左手で、小型悪魔の腕を掴む。 爪が掌に食い込んだ。 痛い。 でも、離さない。 右手の剣を短く持ち替え、全体重を乗せて突き出す。 刃先が、小型悪魔の胸元をかすめた。 黒い影が、初めて後ろへ跳んだ。 ほんの少し。
「……あの人が」 かすれた声が、夜の部屋に落ちた。 アストリアの神殿の奥。ミユウに与えられた部屋は、白い石壁に囲まれていて、窓から差し込む月明かりだけが、薄く床を照らしていた。 昼間はあれだけ人の声であふれていた神殿が、今は嘘みたいに静まり返っている。 その静けさの中で、ミユウは眠っていた。 いや、眠っているはずだった。 白い羽は力なくシーツに広がり、細い指は胸元で何かをつかもうとするように震えている。額には汗が浮かび、唇だけが何度も同じ言葉を繰り返していた。 「……あの人が。……あの人が」 俺は椅子を蹴るように立ち上がった。 「ミユウ」 返事はない。 「ミユウ、起きろ」 声をかけても、まぶたは開かない。代わりに、ミユウは苦しそうに眉を寄せ、首を横に振った。 「いや……来ないで……」 胸の奥が冷えた。 昼間、ミユウは倒れるまで人を癒した。 止めても笑っていた。まだ大丈夫だと、いつもの明るい声で言った。 大丈夫なわけがなかった。 こんなに細い体で、こんなに力なく眠って、夢の中でまで誰かに怯えている。 俺はベッドの横に膝をつき、ミユウの手を握った。 驚くほど冷たかった。 「ミユウ!」 自分でも驚くくらい大きな声が出た。 その瞬間、ミユウの瞳が開いた。 「っ……!」 白い羽が跳ねる。ミユウは何かから逃げるように上半身を起こし、そのままベッドの端へ傾いた。 「危ない!」 俺は考えるより先に腕を伸ばした。 倒れ込んできた体を抱き止める。 軽い。 あまりにも軽かった。 腕の中のミユウは、今にも消えてしまいそうだった。薄い雪を抱いているみたいに、強く触れたら壊れそうで、離したら二度と戻ってこない気がした。 「龍夜……くん……?」 「俺だ」 「ここ……どこ……? あの人は……」 またその言葉を聞いた瞬間、胸の奥に火がついた。 怒りじゃない。 たぶん、悔しさだった。 俺はミユウの肩を支え、逃げるように揺れる顔を自分のほうへ向けた。 「悪夢でも、ラフィセルでもなく、俺を見ろ」 ミユウの瞳が揺れた。 「俺はここにいる。お前の目の前にいる。だから、今はそいつを見るな」 「でも……」 「でもじゃない」 俺はミユウの額に、そっと口付けを落とした。 ほんの一瞬だった。 泣きそうな子どもを現実に引き戻すみた
「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!」「いや、逃げたかったけどな」「でも逃げなかったもん!」 ミユウは、まるで自分のことみたいに笑っていた。 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。 俺は強くない。 魔力もない。 剣だって、まだまともに振れない。 でも、ミユウはそんな俺を見て、まっすぐに笑う。「龍夜くんは、絶対強くなるよ」「……なんでそんなに言い切れるんだよ」「だって、諦めない人だから」 何気ない言葉だった。 でも、俺にはそれが、どんな魔法よりも強く響いた。 誰かに信じてもらうことが、こんなに怖くて、こんなに嬉しいものだなんて知らなかった。「雑魚スライム一匹で感動するな。見てるこっちがむず痒い」 石柱にもたれたルゥが、鼻で笑った。「うるさいな。勝ちは勝ちだろ」「ほう。言い返す元気は残ってるのか」 ルゥは俺の足元から剣先までを見て、小さく息を吐いた。「まあ、逃げなかったことだけは認めてやる」「それ、褒めてるのか?」「勘違いすんな。底辺が少し地面から顔を上げただけだ」 相変わらず腹の立つ言い方だった。 けれど、不思議と嫌ではなかった。 たぶん、今の俺は少しだけ浮かれていた。 初めて、自分にも何かできるかもしれないと思えたから。 その時だった。 神殿の表側から、ざわめきが聞こえた。 歓声じゃない。 祈りでもない。 泣き声。 叫び声。 助けを求める声。 ミユウの笑顔が消えた。「行かなきゃ」「待て、ミユウ」 俺が止めるより早く、彼女は走り出していた。 神殿の大広間は、人であふれていた。 老人を背負った男。 熱にうなされる子どもを抱いた母親。 顔
「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で、ルゥが俺を見ている。 長い金髪。背に広がる白い羽。 天使族の長。その姿は、ただ立っているだけで空気を支配していた。「まだ挑むのか」 ルゥが静かに言った。 冷たい声だった。けれど、雑ではない。 試している。測っている。 俺が本当にミユウのそばに立つ資格があるのかを。「挑むんじゃない」 俺は剣を握る手に力を込めた。「勝つんだ」 ルゥの瞳が、わずかに細くなる。「魔力もない。技も未熟。戦い方も知らない。それで何を根拠に勝つと言う」「根拠ならある」「何だ」「俺が、もう逃げないって決めた」 言った瞬間、自分の中で何かが定まった。 俺は勇者じゃない。 まだ救世主なんて呼ばれるような人間でもない。 けれど、ミユウを守りたいと思った。 あの白い羽の少女を、もう一人で泣かせたくないと思った。 それだけは、誰かに与えられた役目じゃない。 俺自身が選んだ理由だ。「口でなら何とでも言える」 ルゥが片手を上げた。 空気が張り詰める。 芝の上に淡い光が落ち、青白いスライムが跳ねた。 その瞬間、体がぐにゃりと歪む。 一体だったはずの姿が、二つ、三つ、五つに分かれた。 俺を囲むように、同じ姿のスライムが跳ね回る。 右。左。正面。背後。 さっきの俺なら、全部を目で追おうとして、全部に騙された。 でも、もう同じ失敗はしない。 俺は剣先をわずかに下げた。 焦るな。 目だけに頼るな。 魔力がないなら、感じればいい。 読むんだ。奴の動きを。 芝が沈む音。 空気を押す気配。 跳ねる直前の、ほんのわずかな間。 偽物は軽い。 本物だけが、地面
「いやあぁっ!」 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。「龍夜くん、少しだけ休んでいって」 そう言って、俺の手を離さなかった。 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだった。けれど、ミユウが眠るまでそばにいてほしいと小さな声で言ったから、俺はベッドの端に腰を下ろした。 ミユウは俺の袖を掴んだまま、安心したように目を閉じた。 その手を振りほどけなかった。 気づけば、俺も壁にもたれてうとうとしていたらしい。 だから、目の前でミユウが泣き叫んでいる光景に、頭が追いつかなかった。「やめてよぉ……お父さん、お母さん、みんな……!」 涙で濡れた声が、月明かりの部屋に落ちた。 白い石壁。薄く揺れるカーテン。窓の外には、青白い光を帯びた夜の庭が広がっている。 綺麗な部屋だった。 なのに、ミユウの瞳だけが、そこにない地獄を見ていた。「ミユウ」 俺は名前を呼んだ。 届かない。 ミユウは目を開けている。けれど、俺を見ていない。俺の向こう側にいる誰かに向かって、必死に首を振っていた。「お願い、連れていかないで……! もう、ひとりにしないで……!」 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。 昼間のミユウは、いつも笑っていた。 天真爛漫で、少し強引で、俺みたいなスキルなしの高校生にまで「大丈夫」と手を伸ばしてくれる。 でも今のミユウは違う。 笑顔の下に隠していたものが、夢の中から無理やり引きずり出されているみたいだった。「ミユウ、起きろ。俺だ。龍夜だ」「こないでっ!」 伸ばした手を、ミユウが払いのけた。 次の瞬間、乾いた音が部屋に響いた。 頬に鋭い痛みが走る。 叩かれたのだとわかるまで、一拍遅れた。 でも、腹は立たなかった。 ミユウの手は冷たかった。震えていた。何より、叩いた本人のほうが、痛みに耐えているような顔をしていた。「い
「雑魚だろ。そんなひょろくて能力もないやつが救世主なんて信じられん」 ルゥの声が、神殿の裏庭に冷たく落ちた。 白い石畳の上で、俺は拳を握ったまま動けなかった。言い返したいのに、喉の奥が焼けつくばかりで、うまく声にならない。 天界アストリアに召喚されてから、俺は何度も自分の弱さを見せつけられている。 戦闘力はない。魔力もない。剣を握っても、手のひらに残るのは頼りない重さだけ。 それでも、ミユウを守るためにここへ来たのだと、俺は思いたかった。「ルゥ、そんな言い方しないで」 俺の隣で、ミユウがむっと頬をふくらませた。 背中の白い羽が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。神殿の庭に咲いた淡い花より、その白はずっとまぶしい。 けれど、その白さを見るたび、胸の奥がざわついた。 もしミユウが白い翼を持つ存在ではなく、ただの普通の少女として生きていたら。 もっと穏やかに笑って、誰かに狙われることもなく、痛みや恐怖から遠い場所で幸せに暮らせたのかもしれない。 でも、現実のミユウは違う。 白翼の継承者。 特別な癒しの力を持つ少女。 その力のせいで、天使族からも悪魔族からも狙われている。 あの白い羽は綺麗なだけじゃない。ミユウを特別にして、同時に、この世界の残酷さの真ん中に立たせているものでもあった。「事実を言っただけだ」 ルゥは腕を組んだまま、俺を上から下まで眺めた。 銀色に近い淡い髪が風に揺れている。整った顔立ちをしているのに、その目つきだけは刃物みたいだった。「ミユウを守る? お前が? 雑魚の偽物が?」 胸の奥に、鈍い音がした。 雑魚。 偽物。 たった二つの言葉が、俺の足元を崩していく。 学校では、こんなふうに誰かから面と向かって価値を否定されたことなんてなかった。何者にもなれない焦りを、くだらない妄想でごまかしていた俺には、ルゥの言葉が痛すぎた。「偽物かどうかは、まだ決まってないだろ」 やっと出た声は、思ったより低かった。 ルゥの眉が少しだけ動く。「へえ。口だけは救世主っぽいな」「口だけで終わらせるつもりはない」「なら、見せてみろ」 ルゥが片手を掲げた瞬間、裏庭の空気が変わった。 神殿の白壁に刻まれた紋様が、かすかに光る。足元の草が、見えない風に押されるようにざわめいた。 少し離れた噴水の水音まで、急に遠のいた気が
「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」 俺の声は、自分で思ったより低く響いた。 白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。 ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。 それでも、一つだけ引っかかっていた。 目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。 俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。 瀬野龍夜。 俺が名乗る前に。 その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気
白い扉の前で、俺は足を止めた。 測定の間。そこへ向かうまで、ミユウは俺の手首を掴んだまま、迷いなく歩いてきた。「龍夜くん、こっちだよ」「……これ、本当に必要なのか」 ミユウはきょとんと振り返った。白い羽が揺れ、銀色の髪が肩で跳ねる。「必要だよ。龍夜くんが、どんな力を持ってるか見るの」「持ってなかったら?」 自分でも嫌な聞き方だと思った。 けれどミユウは怒らない。俺の手首を離し、両手で俺の手を包んだ。「持ってなくても、龍夜くんは龍夜くんだよ」「それ、答えになってない」「うん。答えじゃないよ。でも、先に言いたかったの。水晶が見せるものが、ぜんぶじゃないって」 小さな掌は
教室の床が光った瞬間、俺の指先からスマホが滑り落ちた。 画面の中では勇者が剣を振り上げたまま止まり、机の脚も、上履きの先も、椅子の影も白く焼けていく。誰かのシャーペンが床に転がる音だけが、耳の奥でやけに大きく響いた。 次に膝へ触れたのは、教室の床ではなかった。 手のひらに食い込む、ざらついた石の冷たさ。肺に入った空気は、チョークではなく、古い香炉と雨上がりの石畳みたいな匂いがした。 俺は瀬野龍夜。漫画やゲームの世界に逃げ込み、異世界で無双する妄想ばかりしている、ごく普通の高校生だ。 ……なのに。 足元には白い線で描かれた巨大な円があった。文字、羽のような模様、薄く脈を打つ光。そ







