Masuk「雑魚だろ。そんなひょろくて能力もないやつが救世主なんて信じられん」
ルゥの声が、神殿の裏庭に冷たく落ちた。
白い石畳の上で、俺は拳を握ったまま動けなかった。言い返したいのに、喉の奥が焼けつくばかりで、うまく声にならない。
天界アストリアに召喚されてから、俺は何度も自分の弱さを見せつけられている。
戦闘力はない。魔力もない。剣を握っても、手のひらに残るのは頼りない重さだけ。
それでも、ミユウを守るためにここへ来たのだと、俺は思いたかった。
「ルゥ、そんな言い方しないで」
俺の隣で、ミユウがむっと頬をふくらませた。
背中の白い羽が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。神殿の庭に咲いた淡い花より、その白はずっとまぶしい。
けれど、その白さを見るたび、胸の奥がざわついた。
もしミユウが白い翼を持つ存在ではなく、ただの普通の少女として生きていたら。
もっと穏やかに笑って、誰かに狙われることもなく、痛みや恐怖から遠い場所で幸せに暮らせたのかもしれない。
でも、現実のミユウは違う。
白翼の継承者。
特別な癒しの力を持つ少女。
その力のせいで、天使族からも悪魔族からも狙われている。
あの白い羽は綺麗なだけじゃない。ミユウを特別にして、同時に、この世界の残酷さの真ん中に立たせているものでもあった。
「事実を言っただけだ」
ルゥは腕を組んだまま、俺を上から下まで眺めた。
銀色に近い淡い髪が風に揺れている。整った顔立ちをしているのに、その目つきだけは刃物みたいだった。
「ミユウを守る? お前が? 雑魚の偽物が?」
胸の奥に、鈍い音がした。
雑魚。
偽物。
たった二つの言葉が、俺の足元を崩していく。
学校では、こんなふうに誰かから面と向かって価値を否定されたことなんてなかった。何者にもなれない焦りを、くだらない妄想でごまかしていた俺には、ルゥの言葉が痛すぎた。
「偽物かどうかは、まだ決まってないだろ」
やっと出た声は、思ったより低かった。
ルゥの眉が少しだけ動く。
「へえ。口だけは救世主っぽいな」
「口だけで終わらせるつもりはない」
「なら、見せてみろ」
ルゥが片手を掲げた瞬間、裏庭の空気が変わった。
神殿の白壁に刻まれた紋様が、かすかに光る。足元の草が、見えない風に押されるようにざわめいた。
少し離れた噴水の水音まで、急に遠のいた気がした。
ここは神殿の裏庭だ。外からは見えにくく、白い柱に囲まれた静かな場所。ミユウが「ここなら人が少ないから、龍夜くんも落ち着けるよ」と連れてきてくれた場所だった。
その静けさを、ルゥは一瞬で戦場に変えた。
ミユウが小さく息を呑む。
「ルゥ、まさかここで召喚術を使うの?」
「こいつの力量を見るだけだ。死ぬような相手は出さない」
「でも、龍夜くんはまだ――」
「だからだ」
ルゥの声が低くなった。
「本当に救世主なら、雑魚相手くらい斬れる。偽物なら、ここで自覚できる」
俺は腰に下げられた訓練用の剣に手をかけた。
重い。
たったそれだけの動作で、腕に余計な力が入る。剣道なんて授業で少しかじった程度だ。異世界の戦い方なんて、漫画やゲームの中でしか知らない。
それでも、ミユウの前で逃げるわけにはいかなかった。
俺は救世主として呼ばれた。
なら、少なくとも、逃げないくらいの意地は見せたい。
「出でよ」
ルゥが呪文を唱える。
知らない言葉が空気に溶け、庭の中央に青白い光の輪が浮かんだ。
輪の内側から、ぬるりと何かが這い出してくる。
半透明の体。水を固めたような丸い輪郭。人の膝ほどの高さしかない。
スライムだった。
正直、少しだけ安心した。
巨大な魔獣でも、牙だらけの化け物でもない。これなら、俺にもどうにかできるかもしれない。
その甘さを、すぐに思い知らされることになる。
「来い」
俺は剣を構えた。
スライムはぷるんと震えたあと、俺を見上げるように体を傾けた。
次の瞬間、地面を跳ねた。
「っ!」
思ったより速い。
俺は反射で横に避けたつもりだった。だが、足がもつれる。剣先が石畳をこすり、耳障りな音が鳴った。
スライムは俺の肩にぶつかり、そのまま弾む。
痛みより先に、体が傾いた。
膝をついた俺の横で、ルゥが鼻で笑う。
「救世主様、今のが避けられないのか」
「まだ一回目だ」
「雑魚の偽物は言い訳だけは早いな」
奥歯を噛んだ。
怒りで視界が狭くなる。けれど、怒りだけで剣は動かない。
俺は立ち上がり、もう一度スライムに向かった。
剣を振る。
空を切る。
スライムは俺の足元をすり抜け、背後に回った。
次の瞬間、ふくらはぎに冷たい衝撃が走る。
「うわっ」
足をすくわれ、背中から石畳に落ちた。
肺の空気が抜ける。
空が、やけに高い。
神殿の柱の向こうに、白い雲が流れていく。こんな綺麗な場所で、俺は小さなスライム一匹に転がされている。
石畳の冷たさが背中から染みてきた。
悔しい。
痛いより、恥ずかしいより、その感情が先に来た。
ミユウの前で、俺は何もできていない。
「龍夜くん!」
ミユウが駆け寄ろうとした。
しかし、ルゥが片腕を伸ばして止める。
「手を出すな。こいつのためにならない」
「でも、痛そうだよ!」
「痛いだけで済んでいる」
ルゥの言葉は正しい。
それが余計に腹立たしかった。
俺は肘をつき、息を整える。背中がじんじんする。剣を握る指が震えていた。
弱い。
自分でも嫌になるほど、俺は弱い。
このまま弱いままだったら、俺だけじゃない。
ミユウまで危険にさらす。
彼女は白翼を持っているだけで、多くのものを背負わされている。狙われる理由を、望んで手に入れたわけじゃない。それなのに俺が隣で転んでいるだけなら、守るどころか、彼女の足かせになる。
そんなのは嫌だった。
「まだだ」
俺は立ち上がった。
ミユウの目が揺れる。
心配そうな顔をさせたくなかった。けれど、強がって笑える余裕もない。
スライムが、また跳ねる。
俺は今度こそ見切ろうとした。
体の軌道を読む。足を引く。剣を振り下ろす。
刃は、スライムの体をかすめた。
手応えがあった。
ほんの一瞬、胸の奥が熱くなる。
だが次の瞬間、スライムの体がぐにゃりと形を変えた。剣を包み込み、俺の腕ごと引っ張る。
「なっ」
剣が抜けない。
腕に力を込めるほど、半透明の体がぬめるように絡みつく。
足元がおろそかになったところで、スライムがぐっと沈み込んだ。
跳ね上がる。
剣を引かれたまま、俺の体が前へ泳いだ。
肩から石畳に叩きつけられる。
頬に鋭い痛みが走った。
熱いものが皮膚の上を伝う。
手の甲にも、赤い線ができていた。
「龍夜くん、血が!」
ミユウの声が裏返った。
俺は反射的に傷を隠そうとした。
「大丈夫だ。こんなの――」
「大丈夫じゃない!」
ミユウがルゥの腕を押しのけて走ってくる。
ルゥは止めなかった。ただ、苦々しげに眉を寄せる。
「ミユウ、待て。使うな」
「やだ」
「それは軽く使う力じゃない」
「でも、龍夜くんが痛いのはもっとやだ!」
ミユウは俺の前に膝をついた。
その顔から、いつもの無邪気な笑みが消えている。
小さな手が、俺の傷ついた手の甲に触れた。
あたたかい。
ただの体温のはずなのに、そのぬくもりは不思議なくらい深く染み込んできた。
「ミユウ、平気だ。本当に――」
「平気な顔、しないで」
ミユウの声が震えていた。
「龍夜くんが我慢してるの、わたし、いやだよ」
言葉が詰まった。
守るつもりだった。
なのに、俺はまた、この子に心配させている。
ミユウはゆっくり目を閉じた。
背中の白い羽が広がる。
風が止まった。
裏庭に咲いていた花の揺れも、神殿の壁に反射する光も、すべてがミユウを中心に静まり返ったように感じた。
その小さな体から、淡い白金の光があふれ出す。
ただ明るいだけじゃない。
傷口に触れた光は、水のようにやわらかく、火のように熱く、祈りみたいにまっすぐだった。
俺の手の甲の痛みが、少しずつ薄れていく。
頬の傷が引いていく感覚がある。
肩の痛みも、背中の鈍さも、白い光にほどかれていく。
ありえない光景だった。
けれど、俺は目を逸らせなかった。
ミユウの横顔は、今まで見たどんな表情より真剣だった。
いつものミユウはよく笑う。
俺が情けない顔をすれば、すぐに覗き込んでくる。難しい話になると首を傾げて、それでもわかったふりをしないで、まっすぐ聞いてくれる。
けれど今のミユウは、天真爛漫な少女の顔をしていなかった。
誰かを救うために、自分の中の何かを削っている顔だった。
白い羽の根元が、小さく震えている。
額に浮かんだ汗が、光を受けてきらめいた。
それでもミユウは手を離さない。俺の傷だけを見つめて、まるで自分の痛みみたいに眉を寄せている。
その瞬間、ぞっとした。
この力があるから、ミユウは狙われる。
この光を欲しがる者がいる。
この子の優しさごと奪おうとするやつらが、どこかにいる。
白翼の継承者として生まれたから。
特別な癒しの力を持ってしまったから。
ミユウは、普通の少女なら背負わなくてよかったものまで背負っている。
もし、俺がこのまま弱いままだったら。
もし、俺がまた彼女に守られるだけだったら。
ミユウはきっと、何度でもこうして力を使う。
俺が傷つくたびに。
俺が倒れるたびに。
俺の弱さを埋めるために、自分の命を削るように光る。
そんなのは、守るとは言わない。
「ミユウ、もういい」
声がかすれた。
「治った。もう大丈夫だ」
ミユウは答えない。
白い光はさらに強くなる。羽の先から細かな光の粒が散り、俺の傷だけでなく、石畳に落ちた小さな血の跡まで包み込んでいく。
ルゥが一歩踏み出した。
「やめろ、ミユウ。それ以上は体に響く」
「もう、少し」
「命令だ。やめろ」
「いやだ。ちゃんと、治すの」
ミユウの手が冷たくなっていく。
さっきまであたたかかった指先から、力が抜けていくのがわかった。
俺は慌ててその手を握り返す。
「ミユウ!」
光が、ふっと揺れた。
白い羽が力を失ったように下がる。
ミユウの体が前に傾いた。
俺は反射で受け止めた。
軽い。
あまりにも軽すぎて、胸が凍った。
「ミユウ!」
腕の中で、ミユウは目を閉じている。顔色がさっきより白い。唇から小さく息が漏れたから生きているとわかっただけで、全身の血が引いた。
ルゥが駆け寄り、膝をつく。
さっきまで俺を見下していた顔から、余裕が消えていた。
「だから言ったんだ。お前のせいで、こいつが無茶をした」
その言葉に、言い返せなかった。
俺のせいだ。
俺が弱いから。
俺がスライム一匹に転がされたから。
俺が守るどころか、守られる側のままだったから、ミユウは倒れた。
胸の奥が、情けなさで裂けそうだった。
「……悪い」
声が震えた。
誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。
ルゥにか。ミユウにか。それとも、救世主なんて言葉に少しでも浮かれていた自分にか。
ルゥは唇を噛み、俺を睨んだ。
「謝るくらいなら強くなれ。雑魚の偽物のまま、ミユウの隣に立つな」
その言葉は、今までで一番きつかった。
けれど、今度は逃げたいとは思わなかった。
怒りより先に、腕の中の重みがあった。
ミユウの羽が、俺の腕に触れている。やわらかくて、折れそうで、それでも誰かを救うために光ろうとする白。
俺はその白を、守りたいと思った。
ただ呼ばれたからじゃない。
救世主と言われたからでもない。
この子が、俺の傷を見て泣きそうな顔をしたから。
俺が痛いのを嫌だと言って、自分が倒れるまで力を使ったから。
そんな子を、二度と俺のせいで傷つけたくない。
俺はミユウを抱きしめた。
壊さないように、けれどもう離さないように。
喉の奥に残っていた情けなさを、全部飲み込む。
「もっと強くなる」
その言葉は、誰かに聞かせるためのものじゃなかった。
俺自身に叩きつけるための誓いだった。
けれど、ルゥは立ち上がらなかった。
ミユウの顔色を確かめたあと、低い声で言った。
「覚えておけ、瀬野龍夜」
俺は顔を上げる。
ルゥの目には、怒りだけじゃないものがあった。
焦り。
恐れ。
そして、ミユウを失うかもしれないという、俺よりずっと深い痛み。
「お前は今、ミユウの足手まといだ」
胸を貫かれたような気がした。
否定できなかった。
腕の中で眠るミユウの軽さが、その言葉の全部を証明していた。
「ちょっと!帰れないってどういうことよ!」 美咲の声が石の壁に跳ね返り、俺たちの間へ戻ってきた。美咲はその響きにも驚いたように唇を閉じ、青白い光の消えた場所を見返した。踏み出しかけた足が止まる。そこにはもう何もなく、窓から差す明かりが床の石目を照らしていた。ついさっきまで帰り道の開くはずだった空間を、俺も目で探してしまう。 母さんの手が葵の肩に置かれた。父さんは床を見つめてからルゥへ顔を上げたが、その口が開くより先に、美咲が息を吸った。「映画のクランクアップだって明日なのよ!女子高生俳優、初めてランウェイを歩くって今すっごい注目されてるのに!」 言い終えた美咲の喉が、小さく上下した。いつもなら胸を張って話すことなのに、今は誰かに引き止めてもらいたいような声に聞こえた。指先が落ち着かずに擦れ合い、やがて片方の手でもう片方を握り込む。俺へ向けられた目が、すぐにルゥへ移った。 明日には帰れる。その前提が崩れるだけで、姉の声はこんなにも変わってしまう。祝ってもらったばかりの俺には、なおさら返す言葉が見つからなかった。ここへ来てよかったと思ったまま帰ってほしかったのに、今、その帰り道さえ渡してやれない。 隣から花の匂いがした。ミユウのドレスに残る婚礼の香りが、場違いなくらい優しかった。「明日の算数の小テストで平均点取ったら、タケルくんが告白してくれるのに!」 葵は母さんの手の下から身を乗り出していた。俺と目が合っても、いつものように照れて笑ったりしない。唇の端をきゅっと引き結び、返事を待っている。その真剣さに、喉まで出かかった曖昧な慰めが引っ込んだ。 葵にとっての明日は、ただ日付が変わることじゃない。教室へ行って、小テストを受けて、好きな相手の言葉を待つ一日だ。俺が何も言えずにいるうちに、葵の視線が下がった。母さんの手を探した指が、見つけるなり強く絡みつく。「わたしも、今日中には帰れると思ってたよ」 母さんは葵の指を包んだまま、美咲を見た。何か言おうと口を開き、結局、そのまま閉じる。その頬にもさっきまでの柔らかさはなかった。「葵ちゃん……大丈夫?」 ミユウが葵へ近づこうとして、傷をかばうように一度足を止めた。白い翼が背中でこわばり、ドレスの裾だけが遅れて揺れる。葵は顔を上げたが、うなずかなかった。代わりにミユウの手元へ目を落とし、母さんのそばへ少し寄
ミユウの唇から、息になりきらない声が漏れた。寝具を握る指が少しずつ丸まり、白い服の胸元に深いしわを寄せる。布団の脇に出た小さな翼は、何かを振り払おうとするように震えていた。 窓の向こうでは風が鳴っていた。昼間のぬくもりを失った石壁に囲まれ、寝台だけがひどく頼りなく見える。俺は制服の袖を引き上げ、ミユウの頬に張りついた銀白色の前髪をそっと撫でた。そばに立つルゥが、眩しくないよう燭台を遠ざける。 指が額に触れた瞬間、ミユウが飛び起きた。「葵!」 俺はすかさず抱きしめた。背中へ回しかけた腕をずらし、傷と翼を避けて体を支える。寝具の下にこもっていた熱が伝わってきたのに、俺の首筋へ触れた指先は冷たかった。「葵は隣の部屋で母さんと寝てる。大丈夫だ」 ミユウは戸口を見つめた。俺の声が届いていないのかと思った頃、制服をつかむ手に、いっそう力がこもった。「でも、さっきまで……手、つないでたのに。葵、ちゃんといる?」「ああ。朝になったら、一緒に会いに行こう」 彼女は唇を噛み、俺の胸へ額を押しつけた。無事だと何度言っても、夢の中で離れた手は、まだ彼女の中で見つからないのかもしれない。俺は続きを急がず、細い肩が上下するのを待った。胸の呪いが鈍く疼いたが、身じろぎして、この腕までほどけると思わせたくなかった。 小さなノックの後、父さんが入ってきた。寝台へ近づく足が途中で止まり、俺にしがみつくミユウへ目が留まる。ルゥに向けた声は低かった。「心的外傷後ストレス障害ではないか」「シンテキ?それは現代日本の呪文ですか?」 父さんは説明しかけるように口を開いた。しかし、ミユウの顔を見て唇を閉じ、視線を床へ落とした。「なんでもありません」 父さんまで言葉を選んでいる。そのことが、聞き慣れない言葉より胸に残った。俺はミユウの手を包み直した。指の力が少し緩んでも、廊下で物音がすると、また制服が引かれる。「お兄さん、寝ちゃっても、ここにいてね」 うなずくと、彼女はようやく目を閉じた。俺はその後も椅子へ戻らず、寝台の縁で体を支え続けた。腕の中の呼吸が深くなるまで、蝋燭の芯が焦げる匂いと、窓を鳴らす風だけが長い夜を少しずつ進めた。 翌朝、カーテンの裾に明るい線が差した。 隣室から葵の声が聞こえたとき、ミユウは俺より先に顔を上げた。扉のところに現れた葵を見つめ、差し出された手
昼間の白い服から着慣れた制服に戻り、袖口を整えると、肩の力が少し抜けた。回廊を染める夕日の中で、母さんと美咲が明日の婚礼に使う花をのぞき込んでいる。花瓶を置いた台の後ろには、壁を斜めに走る亀裂が残っていた。その前で聞き慣れた声が交わされることが、不思議で、離れがたかった。「ミユウ、城の外に綺麗なお花畑見つけた。遊びに行こうよ」 葵に手を取られ、ミユウが困ったように俺を振り返った。銀白色の髪の間からのぞく頬は緩み、背中の小さな翼が、行きたい気持ちを隠せないように浮いている。引かれるままに踏み出した足が白い服の裾を揺らすのを見て、俺も笑った。「俺もすぐ行くからな」 葵が花畑の方角を言い残す。二人の後を追おうとしたところで、父さんの声が背中に届いた。「龍夜。本当にここに残るんだな。勇者として生きることまで、引き受ける覚悟はあるのか」 父さんの目が一度だけ俺の胸元へ落ちた。答えを急かされないことが、かえって胸に重かった。回廊の向こうでは葵が何か言い、ミユウが声を立てて笑った。あの笑い声のそばで暮らしたい。そのために必要なことを、父さんに言われるまで考えていなかったわけじゃない。「ミユウと、ここで暮らしたい。守るために戦うことも、誰かに任せて逃げるつもりはない」 父さんは唇を結んだまま俺を見ていた。隣から伸びた母さんの手が袖に触れ、布越しに腕を包む。「無理はするんじゃない」 うなずいても、その手はすぐには離れなかった。美咲が俺の肩を軽く叩き、いつもの調子を探すように口元を上げる。「葵をよろしくね。あんたも、ちゃんと戻っておいでよ」 ルゥと回廊を曲がると、家族の声が遠くなった。袖の温かさだけが取り残されたようで、腕を下ろすのをためらう。振り返ればまた足が止まりそうだったから、先に行った二人の笑い声を思い出して歩幅を広げた。 城門の外では、夕風が頬に冷たかった。右手へ続く道をたどると、花の茂みの前で細い道が分かれている。白いものが見えて近づいても、薄明かりに浮かぶ花の房だった。城壁の影が長く伸び、行き先を教えた葵の声ばかりが、妙にはっきり耳に残る。「葵、ミユウ。どこだ?」 返事を待つ間、茂みをこする風の音が大きくなった。こんなに呼んで聞こえないほど遠くへ行ったのか。ルゥと顔を見合わせ、奥の小道へ踏み出しかけたときだった。「にいちゃーーん!!」
「どうした?!ミユウ!」 肩へ添えた手に、細かな震えが伝わった。黒い服の襟元には銀白色の髪が貼りつき、小さな白い翼が寝具を押している。息を吸おうと開かれた唇からは、掠れた音しか出てこない。目の前にいる俺を通り過ぎて、その視線は部屋の暗がりを探していた。 何を見たのか。どこか痛むのか。尋ねたいことが喉につかえたが、ミユウの口元がまた震えるのを見て、言葉を飲み込んだ。高い天井の聖紋も、月明かりを透かす白い垂れ布も、今は彼女を安心させてくれない。俺は顔を近づけ、視線が戻ってくるのを待った。「お兄さん、いる?」「いる、ずっと」 制服の袖を探っていた指が、俺の手を掴んだ。爪の先が食い込む。その痛みを受け止めていると、強張った指がわずかにほどけ、今度は小指だけを握り直した。手首に細い吐息がかかる。肩の震えは残っていたが、俺の顔を見つけた目が、ようやくそこに留まった。 大丈夫だと、何度でも言ってやりたかった。けれど、その言葉のあとでまた息を詰めたら、俺はどうすればいい。慰め方を探すほど、自分の声で彼女の苦しさを覆ってしまいそうで、繋いだ手に少し力を返すことしかできなかった。 寝台の縁から下ろした足に、石床の冷たさが沁みてくる。毛布を引き寄せるための片手さえ、今は惜しかった。ミユウが目を閉じても、指はときおり俺を確かめた。そのたびに握り返し、腕の置き方を変えながら、垂れ布の向こうが明るむまでそばにいた。 翌朝の小食堂には、焼けたパンと温かなスープの匂いが満ちていた。母さんが皿を寄せ、美咲が葵の口元についたパン屑を指摘する。石の壁に響く家族の声を聞いていると、夜の暗がりがようやく背中から離れていく気がした。「ミユウ、このジャムおいしいよ。昨日のクッキーにも合いそう」 葵が差し出した小皿の前で、ミユウのスプーンが止まっていた。呼ばれたことに気づくまで、少し間がある。「……うん。あとで、食べたい」 笑おうとした口元が、すぐに下がった。昨日は焼き上がったクッキーを自分から差し出していたのに、今朝は隣の葵へ何か言いかけても、膝へ目を落としてしまう。向かいの父さんも、そのたびにパンをちぎる手を止めていた。 食事のあと、父さんに呼ばれ、俺とルゥは窓辺へ寄った。夜中の様子を伝えると、ルゥは食卓に残るミユウを見て、声を落とした。「ミユウは九百年にわたり、ひとりで人々を助け
「おぉ、これは。勇者さまのご家族、ようこそいらっしゃいました」 母さんの相槌に、葵の声が重なる。修理の槌音にも負けない声で、妹は結界の光を見上げた。「ここって異世界ってやつだよね?あの漫画の!」 その目が俺の隣で止まり、銀白色の髪から覗く小さな白い翼へ移る。「妖精?!本物!」「天使だよ。それから……俺の婚約者の、ミユウ」 言った途端、家族の顔を見づらくなった。けれど、俺までうろたえてどうする。黒い服の裾を握るミユウのそばへ寄ると、彼女は俺を見上げてから、家族へ向き直った。「お兄さんに、いつも助けてもらってて……だから、ご家族にも会いたかったの。お兄さんと会えてよかったって、お礼を言いたくて」 母さんが返事をしかけた横から、葵が顔を出す。「ねえ、一緒に遊ぼうよ。何するのが好き?」「クッキー、作りたいけど……わたし、焦がしちゃうから」 同じ高さにある顔を見つめるミユウの手を、葵が取った。「失敗しないクッキーの作り方、教えてあげるよ」 神官に台所の方角を教わるなり、葵は歩きだした。ミユウが困ったように俺を振り返る。「あ、ちょっと」「あ、こら、キッチンまた焦がすなよ」「ベーっ」 二人を追おうとした俺の袖を、母さんがつまんだ。「家の鍵かけたかしら」 「火消してきたかしら」 空いた手でポケットを探っている。外出の途中で何度も聞いた声だった。石の柱の下で聞くには妙なのに、袖を引く指の力までいつもどおりで、俺はようやく母さんの顔を落ち着いて見られた。 美咲は柱の裏を覗き、天井の奥へ目を細めている。「映画のセットにしては本格的ね」 撮影現場を見る顔から、俺に目を戻した途端、眉が寄った。「その金髪、学校に何て言うつもり?」「俺が染めたんじゃないって」 神官たちの前で髪の小言を食らうとは思わなかった。勇者と呼ばれていても、姉に襟を直されるのを避けきれない。 父さんだけは壁の継ぎ目や窓の外を静かに見ていた。「我々は今まで、日本の実家で食事をしながら野球中継を見ていたはずだ。ここは現代日本じゃないことはわかる。」 俺が台所の方をうかがって顔を戻すと、父さんと目が合った。ミユウを紹介したときにも感じた視線に、背筋が伸びる。俺は傍らのルゥを、ここへ呼んでくれた相手だと紹介した。「うちの馬鹿息子が大層ご迷惑をかけたようですね」 ルゥは少
「おぉ、勇者さま!」 神殿へ戻った俺たちの前に、白い衣が駆け寄ってきた。靴底を通して伝わる石床の硬さに、ようやく足を止める。ルゥの祈りがまだ胸に残っていて、ミユウと交わす次の言葉を探していたところだった。 一人の声に、奥の神官たちも顔を上げた。欠けた柱の間から次々に人が現れ、足音が高い天井に反響する。見覚えのある広間には壁の崩れた跡が残り、窓から差す光の中を細かな埃が漂っていた。「勇者さま!」 「救世主さま!」 差し出される手に応じるだけで精いっぱいだった。衣の袖口は汚れ、爪の間に土が入り込んでいる。そんな手で俺を迎え、ほっとした顔をされると、何を返せばいいのかわからなくなる。「俺はそんな大層なことしてない」「おぉ、人間界の勇者さまは大層ご謙遜でいらっしゃる」 首の後ろがむずむずした。否定しても、また褒められそうだ。 そのとき、学校の制服の袖がわずかに引かれた。ミユウが隣から神官たちを見上げている。銀白色の髪が頬にかかり、黒い服の背で小さな白い翼が縮こまっていた。 俺に集まる声の中で、彼女が口を開きかけ、閉じた。 ここにいる人たちの無事を、きっと誰より喜びたいはずだ。それなのに、自分の立つ場所を探すような仕草をさせたまま、俺だけが礼を受け取っていたくなかった。「ミユウ一人に任せず、みんなのできることを分けてほしい。ここの守りも、修理も」 神官は俺の顔を見て、静かにうなずいた。軽い返事をしなかったことに、少し肩の力が抜ける。彼はミユウへ向き直ると、衣の裾が床につくのも構わず膝を折った。「ミユウ殿、我々は少し、あなたに甘えすぎていました。勇者さまのお考えの通り、強く拒否されるからと言って何もしないのではありません」 低い声が、最後にかすれた。神官は膝に置いた自分の手へ一度目を落とし、それからミユウを見つめ直した。 袖を握る指に力がこもった。隣を見ると、彼女の唇が震えていた。答えようと吸った息が喉でつかえ、頬を涙が伝っていく。「神官さま。でも わたし」 神官はその先を急かさなかった。ミユウが息を継ぐのを待ってから、入口へ掌を向ける。 壊れた石飾りの向こうに、淡い光が見えた。薄い幕を幾重にも重ねたような輝きが、入口から外壁に沿って続いている。崩れた部分を塞ぐその光を、ミユウも瞬きを忘れたように見ていた。「この神殿に、最も魔力の強い者
「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で
「いやあぁっ!」 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。「龍夜くん、少しだけ休んでいって」 そう言って、俺の手を離さなかった。 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだ
「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」 俺の声は、自分で思ったより低く響いた。 白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。 ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。 それでも、一つだけ引っかかっていた。 目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。 俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。 瀬野龍夜。 俺が名乗る前に。 その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気
白い扉の前で、俺は足を止めた。 測定の間。そこへ向かうまで、ミユウは俺の手首を掴んだまま、迷いなく歩いてきた。「龍夜くん、こっちだよ」「……これ、本当に必要なのか」 ミユウはきょとんと振り返った。白い羽が揺れ、銀色の髪が肩で跳ねる。「必要だよ。龍夜くんが、どんな力を持ってるか見るの」「持ってなかったら?」 自分でも嫌な聞き方だと思った。 けれどミユウは怒らない。俺の手首を離し、両手で俺の手を包んだ。「持ってなくても、龍夜くんは龍夜くんだよ」「それ、答えになってない」「うん。答えじゃないよ。でも、先に言いたかったの。水晶が見せるものが、ぜんぶじゃないって」 小さな掌は