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第4話 守れぬ手

Autor: 東雲明
last update Data de publicação: 2026-06-18 16:20:25

「雑魚だろ。そんなひょろくて能力もないやつが救世主なんて信じられん」

 ルゥの声が、神殿の裏庭に冷たく落ちた。

 白い石畳の上で、俺は拳を握ったまま動けなかった。言い返したいのに、喉の奥が焼けつくばかりで、うまく声にならない。

 天界アストリアに召喚されてから、俺は何度も自分の弱さを見せつけられている。

 戦闘力はない。魔力もない。剣を握っても、手のひらに残るのは頼りない重さだけ。

 それでも、ミユウを守るためにここへ来たのだと、俺は思いたかった。

「ルゥ、そんな言い方しないで」

 俺の隣で、ミユウがむっと頬をふくらませた。

 背中の白い羽が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。神殿の庭に咲いた淡い花より、その白はずっとまぶしい。

 けれど、その白さを見るたび、胸の奥がざわついた。

 もしミユウが白い翼を持つ存在ではなく、ただの普通の少女として生きていたら。

 もっと穏やかに笑って、誰かに狙われることもなく、痛みや恐怖から遠い場所で幸せに暮らせたのかもしれない。

 でも、現実のミユウは違う。

 白翼の継承者。

 特別な癒しの力を持つ少女。

 その力のせいで、天使族からも悪魔族からも狙われている。

 あの白い羽は綺麗なだけじゃない。ミユウを特別にして、同時に、この世界の残酷さの真ん中に立たせているものでもあった。

「事実を言っただけだ」

 ルゥは腕を組んだまま、俺を上から下まで眺めた。

 銀色に近い淡い髪が風に揺れている。整った顔立ちをしているのに、その目つきだけは刃物みたいだった。

「ミユウを守る? お前が? 雑魚の偽物が?」

 胸の奥に、鈍い音がした。

 雑魚。

 偽物。

 たった二つの言葉が、俺の足元を崩していく。

 学校では、こんなふうに誰かから面と向かって価値を否定されたことなんてなかった。何者にもなれない焦りを、くだらない妄想でごまかしていた俺には、ルゥの言葉が痛すぎた。

「偽物かどうかは、まだ決まってないだろ」

 やっと出た声は、思ったより低かった。

 ルゥの眉が少しだけ動く。

「へえ。口だけは救世主っぽいな」

「口だけで終わらせるつもりはない」

「なら、見せてみろ」

 ルゥが片手を掲げた瞬間、裏庭の空気が変わった。

 神殿の白壁に刻まれた紋様が、かすかに光る。足元の草が、見えない風に押されるようにざわめいた。

 少し離れた噴水の水音まで、急に遠のいた気がした。

 ここは神殿の裏庭だ。外からは見えにくく、白い柱に囲まれた静かな場所。ミユウが「ここなら人が少ないから、龍夜くんも落ち着けるよ」と連れてきてくれた場所だった。

 その静けさを、ルゥは一瞬で戦場に変えた。

 ミユウが小さく息を呑む。

「ルゥ、まさかここで召喚術を使うの?」

「こいつの力量を見るだけだ。死ぬような相手は出さない」

「でも、龍夜くんはまだ――」

「だからだ」

 ルゥの声が低くなった。

「本当に救世主なら、雑魚相手くらい斬れる。偽物なら、ここで自覚できる」

 俺は腰に下げられた訓練用の剣に手をかけた。

 重い。

 たったそれだけの動作で、腕に余計な力が入る。剣道なんて授業で少しかじった程度だ。異世界の戦い方なんて、漫画やゲームの中でしか知らない。

 それでも、ミユウの前で逃げるわけにはいかなかった。

 俺は救世主として呼ばれた。

 なら、少なくとも、逃げないくらいの意地は見せたい。

「出でよ」

 ルゥが呪文を唱える。

 知らない言葉が空気に溶け、庭の中央に青白い光の輪が浮かんだ。

 輪の内側から、ぬるりと何かが這い出してくる。

 半透明の体。水を固めたような丸い輪郭。人の膝ほどの高さしかない。

 スライムだった。

 正直、少しだけ安心した。

 巨大な魔獣でも、牙だらけの化け物でもない。これなら、俺にもどうにかできるかもしれない。

 その甘さを、すぐに思い知らされることになる。

「来い」

 俺は剣を構えた。

 スライムはぷるんと震えたあと、俺を見上げるように体を傾けた。

 次の瞬間、地面を跳ねた。

「っ!」

 思ったより速い。

 俺は反射で横に避けたつもりだった。だが、足がもつれる。剣先が石畳をこすり、耳障りな音が鳴った。

 スライムは俺の肩にぶつかり、そのまま弾む。

 痛みより先に、体が傾いた。

 膝をついた俺の横で、ルゥが鼻で笑う。

「救世主様、今のが避けられないのか」

「まだ一回目だ」

「雑魚の偽物は言い訳だけは早いな」

 奥歯を噛んだ。

 怒りで視界が狭くなる。けれど、怒りだけで剣は動かない。

 俺は立ち上がり、もう一度スライムに向かった。

 剣を振る。

 空を切る。

 スライムは俺の足元をすり抜け、背後に回った。

 次の瞬間、ふくらはぎに冷たい衝撃が走る。

「うわっ」

 足をすくわれ、背中から石畳に落ちた。

 肺の空気が抜ける。

 空が、やけに高い。

 神殿の柱の向こうに、白い雲が流れていく。こんな綺麗な場所で、俺は小さなスライム一匹に転がされている。

 石畳の冷たさが背中から染みてきた。

 悔しい。

 痛いより、恥ずかしいより、その感情が先に来た。

 ミユウの前で、俺は何もできていない。

「龍夜くん!」

 ミユウが駆け寄ろうとした。

 しかし、ルゥが片腕を伸ばして止める。

「手を出すな。こいつのためにならない」

「でも、痛そうだよ!」

「痛いだけで済んでいる」

 ルゥの言葉は正しい。

 それが余計に腹立たしかった。

 俺は肘をつき、息を整える。背中がじんじんする。剣を握る指が震えていた。

 弱い。

 自分でも嫌になるほど、俺は弱い。

 このまま弱いままだったら、俺だけじゃない。

 ミユウまで危険にさらす。

 彼女は白翼を持っているだけで、多くのものを背負わされている。狙われる理由を、望んで手に入れたわけじゃない。それなのに俺が隣で転んでいるだけなら、守るどころか、彼女の足かせになる。

 そんなのは嫌だった。

「まだだ」

 俺は立ち上がった。

 ミユウの目が揺れる。

 心配そうな顔をさせたくなかった。けれど、強がって笑える余裕もない。

 スライムが、また跳ねる。

 俺は今度こそ見切ろうとした。

 体の軌道を読む。足を引く。剣を振り下ろす。

 刃は、スライムの体をかすめた。

 手応えがあった。

 ほんの一瞬、胸の奥が熱くなる。

 だが次の瞬間、スライムの体がぐにゃりと形を変えた。剣を包み込み、俺の腕ごと引っ張る。

「なっ」

 剣が抜けない。

 腕に力を込めるほど、半透明の体がぬめるように絡みつく。

 足元がおろそかになったところで、スライムがぐっと沈み込んだ。

 跳ね上がる。

 剣を引かれたまま、俺の体が前へ泳いだ。

 肩から石畳に叩きつけられる。

 頬に鋭い痛みが走った。

 熱いものが皮膚の上を伝う。

 手の甲にも、赤い線ができていた。

「龍夜くん、血が!」

 ミユウの声が裏返った。

 俺は反射的に傷を隠そうとした。

「大丈夫だ。こんなの――」

「大丈夫じゃない!」

 ミユウがルゥの腕を押しのけて走ってくる。

 ルゥは止めなかった。ただ、苦々しげに眉を寄せる。

「ミユウ、待て。使うな」

「やだ」

「それは軽く使う力じゃない」

「でも、龍夜くんが痛いのはもっとやだ!」

 ミユウは俺の前に膝をついた。

 その顔から、いつもの無邪気な笑みが消えている。

 小さな手が、俺の傷ついた手の甲に触れた。

 あたたかい。

 ただの体温のはずなのに、そのぬくもりは不思議なくらい深く染み込んできた。

「ミユウ、平気だ。本当に――」

「平気な顔、しないで」

 ミユウの声が震えていた。

「龍夜くんが我慢してるの、わたし、いやだよ」

 言葉が詰まった。

 守るつもりだった。

 なのに、俺はまた、この子に心配させている。

 ミユウはゆっくり目を閉じた。

 背中の白い羽が広がる。

 風が止まった。

 裏庭に咲いていた花の揺れも、神殿の壁に反射する光も、すべてがミユウを中心に静まり返ったように感じた。

 その小さな体から、淡い白金の光があふれ出す。

 ただ明るいだけじゃない。

 傷口に触れた光は、水のようにやわらかく、火のように熱く、祈りみたいにまっすぐだった。

 俺の手の甲の痛みが、少しずつ薄れていく。

 頬の傷が引いていく感覚がある。

 肩の痛みも、背中の鈍さも、白い光にほどかれていく。

 ありえない光景だった。

 けれど、俺は目を逸らせなかった。

 ミユウの横顔は、今まで見たどんな表情より真剣だった。

 いつものミユウはよく笑う。

 俺が情けない顔をすれば、すぐに覗き込んでくる。難しい話になると首を傾げて、それでもわかったふりをしないで、まっすぐ聞いてくれる。

 けれど今のミユウは、天真爛漫な少女の顔をしていなかった。

 誰かを救うために、自分の中の何かを削っている顔だった。

 白い羽の根元が、小さく震えている。

 額に浮かんだ汗が、光を受けてきらめいた。

 それでもミユウは手を離さない。俺の傷だけを見つめて、まるで自分の痛みみたいに眉を寄せている。

 その瞬間、ぞっとした。

 この力があるから、ミユウは狙われる。

 この光を欲しがる者がいる。

 この子の優しさごと奪おうとするやつらが、どこかにいる。

 白翼の継承者として生まれたから。

 特別な癒しの力を持ってしまったから。

 ミユウは、普通の少女なら背負わなくてよかったものまで背負っている。

 もし、俺がこのまま弱いままだったら。

 もし、俺がまた彼女に守られるだけだったら。

 ミユウはきっと、何度でもこうして力を使う。

 俺が傷つくたびに。

 俺が倒れるたびに。

 俺の弱さを埋めるために、自分の命を削るように光る。

 そんなのは、守るとは言わない。

「ミユウ、もういい」

 声がかすれた。

「治った。もう大丈夫だ」

 ミユウは答えない。

 白い光はさらに強くなる。羽の先から細かな光の粒が散り、俺の傷だけでなく、石畳に落ちた小さな血の跡まで包み込んでいく。

 ルゥが一歩踏み出した。

「やめろ、ミユウ。それ以上は体に響く」

「もう、少し」

「命令だ。やめろ」

「いやだ。ちゃんと、治すの」

 ミユウの手が冷たくなっていく。

 さっきまであたたかかった指先から、力が抜けていくのがわかった。

 俺は慌ててその手を握り返す。

「ミユウ!」

 光が、ふっと揺れた。

 白い羽が力を失ったように下がる。

 ミユウの体が前に傾いた。

 俺は反射で受け止めた。

 軽い。

 あまりにも軽すぎて、胸が凍った。

「ミユウ!」

 腕の中で、ミユウは目を閉じている。顔色がさっきより白い。唇から小さく息が漏れたから生きているとわかっただけで、全身の血が引いた。

 ルゥが駆け寄り、膝をつく。

 さっきまで俺を見下していた顔から、余裕が消えていた。

「だから言ったんだ。お前のせいで、こいつが無茶をした」

 その言葉に、言い返せなかった。

 俺のせいだ。

 俺が弱いから。

 俺がスライム一匹に転がされたから。

 俺が守るどころか、守られる側のままだったから、ミユウは倒れた。

 胸の奥が、情けなさで裂けそうだった。

「……悪い」

 声が震えた。

 誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。

 ルゥにか。ミユウにか。それとも、救世主なんて言葉に少しでも浮かれていた自分にか。

 ルゥは唇を噛み、俺を睨んだ。

「謝るくらいなら強くなれ。雑魚の偽物のまま、ミユウの隣に立つな」

 その言葉は、今までで一番きつかった。

 けれど、今度は逃げたいとは思わなかった。

 怒りより先に、腕の中の重みがあった。

 ミユウの羽が、俺の腕に触れている。やわらかくて、折れそうで、それでも誰かを救うために光ろうとする白。

 俺はその白を、守りたいと思った。

 ただ呼ばれたからじゃない。

 救世主と言われたからでもない。

 この子が、俺の傷を見て泣きそうな顔をしたから。

 俺が痛いのを嫌だと言って、自分が倒れるまで力を使ったから。

 そんな子を、二度と俺のせいで傷つけたくない。

 俺はミユウを抱きしめた。

 壊さないように、けれどもう離さないように。

 喉の奥に残っていた情けなさを、全部飲み込む。

「もっと強くなる」

 その言葉は、誰かに聞かせるためのものじゃなかった。

 俺自身に叩きつけるための誓いだった。

 けれど、ルゥは立ち上がらなかった。

 ミユウの顔色を確かめたあと、低い声で言った。

「覚えておけ、瀬野龍夜」

 俺は顔を上げる。

 ルゥの目には、怒りだけじゃないものがあった。

 焦り。

 恐れ。

 そして、ミユウを失うかもしれないという、俺よりずっと深い痛み。

「お前は今、ミユウの足手まといだ」

 胸を貫かれたような気がした。

 否定できなかった。

 腕の中で眠るミユウの軽さが、その言葉の全部を証明していた。

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